
その1 |
| 安政5年以前まで、まあいろいろとあったざますが、どうにもこうにもバクーフ(幕府)の無策が目立つざます。特に、ロシア交渉の拙さを見ると、日本外交のしょうもなさはここが原点かもしれませんな。 |
| 文化編 (1804〜1817年) |
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| 文化元年 (1804年) |
9月 ロシア使節レザノフ、長崎に漂流民を護送、貿易を求める。 |
| 文化2年 (1805年) |
3月 レザノフの通商要求を拒否し、長崎奉行に漂流民を受け取らせ、以後、漂流民の送還はオランダ人を仲介とする事を伝える。 長崎のレザノフ事件についてはかなり齟齬があったので、修正して後レポートを発表するざます。(H14.12月28日現在) |
| 文化3年 (1806年) |
9月 ロシア船、樺太に来たり、オフイトマリに上陸。クシュンコタンの松前藩会所を略奪攻撃。 |
| 文化4年 (1807年) |
4月 樺太及び択捉島にロシア船来航。函館奉行、津軽・南部藩兵に宗谷を防衛させる。アメリカ船、長崎に来航。 5月 ロシア人、利尻島に進入。幕府の船を焼く。 8月 神谷勘右衛門らを国後島に、近藤守重を利尻島などに巡視。 |
| 文化5年 (1808年) |
1月 幕府、仙台・会津2藩に東西蝦夷地の守備を命じる。 ここに於いて、会津藩の登場と相成ります。 で、「會津松平系譜」曰く 蝦夷鎮戍の兵暫時会津を発す。正月9日より2月5日に至る。陣将北原光裕釆女、番頭日向三郎右衛門、隊伍を率ゐて先方たり。唐太島(樺太)に戍す。軍事奉行丹羽能教織之丞之に属す。軍将内藤信周隊伍を率ゐて宗谷に戍す。番頭梶原平馬隊伍を率ゐて利伊志利島(利尻)に戍す。番頭三宅忠良孫兵衛隊伍を率ゐ松前に屯して応援に備ふ。 このときの殿様は7代藩主容衆、つまり容保の祖父の時代ざます。会津藩は樺太、利尻、松前それぞれに戦隊を駐留させていたのね。もしや利尻の会津藩士の墓というのは、この時期の駐留兵の墓なのでしょうか? しかし、まだ完全に開発されていなかったころの北海道の各地に、会津藩兵がこれだけ駐留していたとは・・・・。藩財政かて、この頃はかなりキツイ時期なのに、この後の江戸湾警備などで出費が重なったのでは。 これもレザノフちゃんの祟りのなせる業か・・・・・・(なんのこっちゃ) 因みに会津藩各戦隊は、12月末にロシアが南下しないという事で、暫時撤収しています。そして、この年の干支は「戊辰」だそうな・・・・・。 8月 英艦フェートン号、長崎に進入。オランダ人2人を捕らえ、薪水を求め、オランダ商館の引渡しを迫る。長崎奉行松平康英、引責自殺する。(フェートン号事件) 重要な事件です。佐賀藩藩主はこの時の長崎警備の不手際の責任を取らされて引退させられてしまいました。 と、同時に、日本の近代軍事の出発点ともいえる事件ともいえるざます。イギリス船の装備に歯が立たなかった佐賀藩は自藩の兵器近代化に躍進する事となり、この当時の長崎若年寄の息子、高島秋帆の眠れる心を覚まさせてしまいましたわい(当時11歳)。 更にいうと、幕府は長崎奉行の詰め腹だけを切らせ、この時のイギリスの軍事動向を無視した形となった感がありますな。心ある人は近代兵器を学ぼうと言う意思があったのに、この後の嘉永におけるペリー来航までに、幕府は何もせずに手を拱いたどころか、蛮社の獄でそれらテクノクラートを抹殺してしまった感がありんすな。 アホか! |
| 文化6年 (1809年) |
6月 幕府、樺太を北蝦夷と改称。 7月 間宮林蔵、北蝦夷を出発。 この年より、文化14年までオランダ船の長崎入港中絶する。 なんでかっつーと、実はオランダ本国はフランス(ナポレオン帝国)に併合されちゃったざますのよ。まあ、それでも長崎の出島にはオランダ国旗がはためいているのだから、これはこれですごい話ざますけどね。 |
| 文化7年 (1810年) |
2月 白河・会津2藩、幕命により相模・安房海岸に砲台を築く。 またまた会津藩に賦役を命じました。 そんでもって「會津松平系譜」曰く 大将軍命じて相模國の海口を警備せしめむ。 4月 参府す。 7月 砲台を相模國観音崎及び三崎に築き陣営を作る。明年に至りて落成す。 11月 観音崎、三崎に戍兵を置く。 なんだかねえ〜。藩財政、この分だと火の車ざましょうに・・・・・・・・。 |
| 文化8年 (1811年) |
6月 松前奉行支配調役、ロシア艦長ゴローニンを国後で逮捕。(ゴローニン事件)ロシア側は日本人漂流民との交換を交渉するが、幕府はこれを拒否。 これについての詳細は、ゴローニンの手記(講談社学術文庫にあるのですが、残念ながら絶版。)に詳しく書かれているのですけど、オイラはまだ読んだことがありません。ごめんなさい! |
| 文化9年 (1812年) |
8月 ロシア船長リコルド、高田屋嘉兵衛をクナシリ海上で捕らえる。 菜の花の沖の主人公、高田屋嘉兵衛の登場ざます。 |
| 文化10年 (1813年) |
5月 リコルド、国後に来たり、高田屋嘉兵衛を介してゴローニン釈放の交渉を開始。 6月 イギリスのジャワ総督ラッフルズがオランダ商館乗っ取りの為に派遣したワルデナール長崎に来航。商館長ヅーフ、巧みにこれを拒否。 9月 ゴローニン釈放。 |
| 文化12年 (1815年) |
対外的な事件はないざますが、ヨーロッパではナポレオンのワーテルローの戦いがあった時期ざます。 |
| 文化14年 (1817年) |
9月 イギリス船、浦賀に来航。 |
| 参考文献 「日本史年表(岩波書店)」「会津松平家譜」「学研 日本歴史」 「高島秋帆(吉川弘文館)」「江川坦庵(吉川弘文館)」「佐賀藩銃砲変革史」 |