安政以前の状況
その3
この時期、バクーフにとって大事件が三つ起きます。
一つは
「大塩平八郎の乱」
幕府キャリアが事実上の国家反乱を、しかも大阪で勃発させます。
(筋肉野郎の大暴れプレリュードざますな!)

もう一つは
「天保の大飢饉」

そして、もう一つは
「蛮社の獄」
オイラ的にはこの事件で幕府主導による改革路線は、自らが終了させたとも考えています。
(極端すぎるかもしれんけど)
因みに、家近良樹氏の「孝明天皇と一会桑」を読むと、幕末期の幕府の対外政策や改革についてはそれなりに柔軟であり、諸藩や世間に閉鎖的ではなかったとの研究が進んでいると書かれていますが、

それ以前にも、改革のチャンスがあったのでは?

という疑問が、個人的にはありざます。あくまでも幕末期が「天保」を含んでいたらという話ですけど。
ま、天保期と幕末期を「こじつけている」と言われてしまっては実もふたも無いけどね。

オイラはこの
「蛮学社中」こと「尚歯会」こそが幕府改革の礎と考えていたんだけどねえ・・・・・

いずれにせよ、大改革のチャンスを自ら潰して、小手先の改革で終始してしまったこの時期のバクーフに責任が無いという事は言えないでしょう!
この部分は難しい話です。オイラもあまり考えが纏まっていないので、この書き込みも変更されるやもしれません。幕府による反動がその数十年前になければ、改革達成が可能だったのでは、と思わせる年です。


さて、今回は伊豆韮山代官・江川太郎佐衛門英龍こと坦庵を織り込みながら書いて見ましょうぞ。




天保編
(1830〜1843年)
天保元年
(1830年)
12月 但馬出石藩の農民強訴。
同 水戸藩徳川斎昭、藩政改革に着手。詳細
同 薩摩藩、三島砂糖惣買入を開始。砂糖専売を強化。
天保2年
(1831年)
2月 外国船、東蝦夷を侵す。
3月 松前章弘、外国船の来航を幕府に報告。
5月 飛騨高山で打ちこわし。
7月〜11月 周防・長門で一揆が拡大。各所で庄屋・問屋を打ちこわす。

因みに隣国「清」では、この年、阿片輸入を禁止しています。
天保3年
(1832年)
7月 イギリス船、琉球に漂着する。
同 筑後竹野郡の農民、郡内一帯の大庄屋を打ちこわす。
11月 村田清風、長州藩に国政改革草案を上申する。

この年、日本外史を著した頼山陽が無くなり、鼠小僧が処刑されました。合掌。
天保4年
(1833年)
2月 島津重豪死去。

なんと89歳ざます。マジカヨ・・・・
この殿様、超ド級の
オランダヲタクで相当無駄使いをやったらしく、お陰で薩摩鹿児島藩は大赤字!そこで調所笑佐衛門のこれまた借金踏み倒し作戦&琉球の徹底した搾取作戦で、黒字に転化して行きます。また、次期藩主島津斎興の確執(ジジイ憎けりゃ孫が憎いと斉彬と愛妾の息子久光との継嗣問題)が、高崎崩れの遠因ともなっていったみたいざます。

8月 大風雨による米価急騰により青森、兵庫で騒動が起きる。(天保の大飢饉が始まる。)この後、9〜12月まで各主要都市地域で打ちこわし頻発!

会津松平家譜より、6月より天候不順となりこれはヤバイと松平容敬は食料の備蓄を開始し、酒と米菓の製造を禁止します。その甲斐もあってか、とりあえず藩内に餓死者はでませんでしたとさ。(眉唾)
天保5年
(1834年)
4月 秋田藩領仙北郡北浦の農民、飯米不足・専売制に反対して秋田城下へ強訴する。
5月 幕府、酒造石数を3分の2に減じる命令を出す。
6月 大坂市中で米価高騰のため、打ちこわしが起こる。
7月 大坂で打ちこわしそのまま続行。
天保6年
(1835年)
4月 美濃高須輪中の農民、大洪水に際し、笠松代官が取った措置に反対して打ちこわし。
8月 秋田藩の能代で物価高騰に苦しむ市民、豪商を打ちこわす。
12月 長崎で中国商人暴動を起こす。

この年、アメリカでモールスが電信を発明。インドムガール帝国が大英帝国より貨幣から皇帝名を削除されたざます。因みに伊豆代官江川坦庵が家督を相続した年でもあります。
天保7年
(1836年)
5月 徳川斎昭、水戸に砲台を築く。
7月 ロシア船、択捉島に漂流民を護送する。
同 越前勝山、加賀石川郡、能美郡で打ちこわし。
8月 駿府で打ちこわし。
同 甲斐郡内の貧農、日雇い、大工ら武装蜂起して甲府城下に迫る。
9月 三河加茂郡の農民、足助町、挙母城下で打ちこわし。挙母、尾張藩兵が武装鎮圧。

天保の大飢饉の死者は10万人以上。因みに侍に餓死者はおりませんでした。ま、身分制度とはこんなもんだわさ。
さて、7月の甲斐暴動は、幕府直轄地域の事実上の反乱だけあって幕府としても看破できず、近隣諸藩に鎮定命令を出しています。暴動参加者は3万人。甲府ほか106ヶ村・305軒が打ちこわされたそうです。(最早、内戦だね、こりゃ)。因みに江川支配下の津久井村でも暴動が発生。8月には八王子でも暴動が起きた為、坦庵は小銃1個小隊相当(20名)で鎮圧に動いています。
天保8年
(1837年)
2月 大塩平八郎の乱

幕府崩壊のプレリュードねん。

大坂町奉行所の与力でもある大塩平八郎は、あの頼山陽の弟子でもあるざます。この時期、大坂町奉行は江戸へ米を優先的に廻送を行い、また一部の幕府キャリアと結託した豪商は、米を大坂以外の転売できる地域に持って行きます。まあ当然ながら大坂では餓死者続出!まあ、反乱が起きる訳だ。

又、会津藩も、大塩平八郎の乱について動向を調査する為に、藩士を大坂に派遣しています。
なおこの時期、グレート斎昭は天保飢饉の影響で、会津藩に救援米の要請を2月に行っており、会津藩は水戸藩に米2千表を援助しています。


更に、関東でも大塩反乱の余波があり、武蔵・相模それぞれに大塩残党が蜂起する噂やら、渡辺崋山の手紙にも「大塩がアメリカ船に乗っていたよ〜ん」てな事が書いてあったそうざます。(かなりムチャな噂だなあ)
まあ、風聞が風聞だけに、江川坦庵も大塩関連の情報収集と、天保飢饉で崩壊寸前の幕府天領の調査も兼ねて甲斐・武蔵・相模三カ国を斉藤弥九郎とともに隠密裏に巡察を行います(甲州微行)。この時坦庵は「遠山の金さん」並みの活躍をしているそうな。(マジです)

6月 越前柏崎で国学者生田万が門弟、村役人を率いて陣屋を襲撃。(生田万の乱)
同 アメリカ船モリソン号が浦賀に入港。浦賀奉行はこれを砲撃。(モリソン号事件)

高野長英「夢物語」で打ち払いの不可能と危険性を説明しているそうです。(例によって読んでいません。ゴメン!)また、この事件後、備場巡見を行いますが、ここで鳥居耀蔵とモメてしまい、また江戸湾測量でも鳥居と坦庵は測量の能力でまたモメてしまい、蛮社の獄の遠因を作ってしまったようです。
天保9年
(1838年)
2月 幕府、武家諸法度を発布。 
8月 徳川斎昭、内憂外患について幕府に意見書を提出。
同 長州藩、村田清風を起用して藩政改革を行う。

天保の改革は幕府だけでなく、水府、山口、鹿児島や他藩でも行われました、その後、幕府の改革は失敗。水戸はそれなりの成果、薩摩はムチャな成功を。長州はムチャを抑えて徹底的な改革により成功、というところでしょうか。
天保10年
(1839年)
5月 蛮社の獄

「夢物語」における内容、備場巡見と江戸湾測量の確執、渡辺崋山の「諸国建地草図」「西洋事情之儀御尋云々」の内容不適当(要するに御政道批判というやつ)という建前の理由より、洋学嫌いの鳥居耀蔵から事件が発端しています。
坦庵も検定した渡辺崋山の「外国之事情申上候書付」はカナーリ幕政批判をおこなっている書らしく、坦庵としても「ボツ」にしたそうですが、チックリにより崋山は逮捕。高野長英は逃走後、自首。
(長英の無人島渡航計画なるものは逮捕のためのデッチアゲざます)小関三英はシーボルト事件の再来を恐れて自決。鳥居の蛮学社中弾圧(個人的な私怨によるが)は成功したざますが、これにより次の世代(開国)に渡すべき知識も思考も政略も葬り去ってしまい、幕府改革のチャンスはこれにて終了したざます!
オイラ的には、江川坦庵を調べていくうちに彼らこそ、小栗上野介などのキャリア出現前にも彼らなら幕府改革の後に開国(それも対等な軍事力と政治力が行使できる状態で)できたのでは?と鴉の邪推をしていたのですが?

このあと幕府は、日本陸軍のウルトラキングこと
高島秋帆すらも投獄してしまい、幕府は軍事改革の機会も放棄しました!(個人的に怒
天保11年
(1840年)
5月 長崎奉行に命じてオランダ風説書は以後原文を添付して提出させる。同時に蘭学翻訳書の流布を取り締まる。
7月 長州藩、流通貨幣に関する大会議を開き、村田清風ら改革構想を提出する。
12月 横井小楠、熊本に帰国して実学党を組織。高島秋帆、幕府に「西洋砲術意見書」を提出。

ウルトラ・キング秋帆の言いたいことは、「うちの国の銃器は外国に笑われるほどしょうもないので、こいつを強化してヨソ者に舐められない軍備を整えましょう」と言いたいらしいざます。こんな事、現代の国会でしゃべれば以下略。
そしてこの年、清国では
アヘン戦争が勃発しました!
天保12年
(1841年)
3月 徳川斉昭、大砲を鋳造する。
5月 高嶋秋帆、幕府の命令により徳丸原で洋式銃隊の訓練を行う。

日本陸軍の黎明ざます!
この後行われる幕府主導の天保改革よりも、こっちの方がはるかに価値があると思うんだけどな。なーんで歴史教科書はこれを載せないのであろうか?
オイラは国防と科学技術いう見地から考えると、「やあやあ我こそは」式の刀槍による白兵戦から「銃」と「銃剣」そして「大砲」による火力戦に一変させるほどの変革を見せつけた事。そしてペリー来航から13年前に、既に彼らの戦力に拮抗できる軍事力と技術を、この鎖国化の日本に於いて、一介の民間人がそれを行おうとした事に意義があると思うのだけど。


10月 渡辺崋山自殺。
天保13年
(1842年)
6月 高嶋秋帆に砲術教授を許す。

と、順調に秋帆に任せればなーんも問題はなかったざあますけど、この後がいけねえやねえ・・・・・・・

7月 川越藩に相模海岸、今冶藩に房総海岸の警備を命令する。
10月 高嶋秋帆を逮捕、投獄する(長崎事件)

蘭学嫌いの鳥居耀蔵によるでっちあげの事件として取り扱われています。詳しくは別の機会に語りますが、秋帆が釈放されたのが嘉永6年、ペリー来航の時です。つまり、本来ならば世界から来る重火器関連の情報を整理して、それらの技術を取得、そして実行できるだけの人材を閉じ込めてしまった訳ざます。(この長崎事件の件で、でっちあげがバレた鳥居は、明治初年まで亀山藩に監禁されてしまっていますがね)
しかし、10年間も幕府は最新鋭の軍事技術を紐解ける人材をそのまま葬ったのだから、オイラ的にはこっちの方が驚くね。その間に西洋銃陣の技術が入ってきただろうけど、それらの技術を実践させる指導ができる人がどれだけいたか?

因みにこの年、清は香港を英国に割譲されます。
天保14年
(1843年)
4月 長州藩、村田清風検索の37ヶ年賦皆決済法を施行する。
6月 新潟奉行を設置
9月 江戸・大坂10里四方上知令を発布する。
閏9月 上知令を撤回。
12月 オランダ国王、開国勧告の書簡を送る。イギリス軍艦、宮古島、八重山諸島を測量する。




付録資料 但し、チョーいい加減
戊戌夢物語

徳川斉昭と水戸藩天保改革詳細




参考文献 「日本史年表(岩波書店)」「高嶋秋帆(人物業書)」「江川坦庵(人物業書)」「会津松平家譜」「水戸の斎昭」「佐賀藩銃砲沿革史」「日本の軍装」